マタイ16章

マタイ16章24節
 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、
  自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」」

  自分を捨て、自分の十字架を負うとは、何と大変なことでしょうか。私の中にはまだ自分を
  可愛がり、自分の罪を認めたくない性質が残っているのがはっきりと分かります。古い自分の
  肉の性質を消し去ることは簡単ではありません。けれども、本当にイエス様についていきたいと
  思うなら、自己愛を捨て、自分の罪を認めなければ始まりません。その後に、「わたしのために
  いのちを失う者は、それを見いだすのです」とあります。命をかけてイエス様を愛することが
  できたら何と素晴らしいでしょう!先日小学校6年生のクラスで「コルベ神父」の本を読みました
  が、彼が身代わりを申し出て強制収容所で死ぬことができたのは、正しく神のためだったのでは
  ないでしょうか。私には他人のために、イエス様のために命を捨てることができるでしょうか?
  今はできないかもしれませんが、必要なときはいつでも命を捧げることのできる者でありたいと
  願います。そのためにも、主が天の御国で待っていてくださるという確信を深めることが必要です。
  主よ、新しい1日を与えてくださってありがとうございます!Praise the Lord!!